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岩波文庫
岩波書店 兵藤裕己
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十四世紀、南北朝五十余年の争乱の世を、雄渾な筆致で描いた歴史文学の大著。後醍醐天皇の即位以降、足利尊氏の時代を経て、足利義満の補佐として細川頼之が管領職に就任し、その優れた政治によって乱世が太平の世を迎えるまでを描く。* 全巻構成 *◇ 太平記 (一)鎌倉幕府の滅亡に始まる南北朝の動乱。北条一族の終焉、楠正成らの知勇が支える後醍醐天皇の新政権、足利尊氏の離反と南朝北朝の分離、室町幕府の成立……。数十年にわたって列島を揺るがした巨大な戦乱を記す『太平記』(全四十巻)。後世に深甚な影響を与えた書の古態を伝える室町初期の「西源院本」に、初の校注を加える。◇ 太平記 (二)元弘3年(1333)、後醍醐帝の綸旨を得て、足利尊氏は北条一族追討の兵を挙げる。新田義貞・赤松円心らが加わった倒幕軍の勢いは止まらず、五月、北条高時以下873人が自害、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。だが、京に戻った後醍醐帝の親政はやがてほころびを見せ、建武政権に反旗を翻した尊氏は、九州へ落ちる。◇ 太平記 (三)建武3年(1336)5月、足利軍との戦いに敗れた楠正成は湊川で自害し、暦応元年(1338)閏7月新田義貞も流れ矢に眉間を射られて討死した。南朝の勢力が衰える中、武家は公家を軽んじ、佐々木道誉は延暦寺の門跡寺院を焼き討ちする暴挙に出た。2年8月後醍醐帝は病となり八宮への譲位などを遺言して崩御した。◇ 太平記 (四)貞和四年(1348)、楠正成の子正行が父の十三年忌に際して挙兵し、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。これに対し高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かい、正行・正時兄弟は戦死し、師直は吉野南朝の皇居を焼き払った。その後師直は足利直義と対立し観応の擾乱となったが、観応二年(1351)武庫川で上杉能憲に討たれ、高一族は滅亡した。◇ 太平記 (五)観応2年(1351)2月高師直・師泰が討たれた。延文3年(1358)4月には足利尊氏も病死し、12月に義詮が征夷大将軍に就任した。南北の争いが続く中、康安元年(1361)には京都で大火・疫病・大地震が発生、南朝軍が進攻した。有名な「神霊矢口渡」や大名佐々木道誉のエピソードも挿まれ、バサラの時代が語られる。◇ 太平記 (六)十四世紀半ばの観応の擾乱、尊氏の死、有力守護大名の没落のあと、年少の将軍義満の補佐として細川頼之が管領職に就任、その優れた政治によって、さしもの乱世も「中夏無為」の太平の世を迎えることになった。南北朝五十余年の争乱の世を雄渾な筆致で描いた歴史文学の大著『太平記』がここに完結する。
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十四世紀、南北朝五十余年の争乱の世を、雄渾な筆致で描いた歴史文学の大著。
後醍醐天皇の即位以降、足利尊氏の時代を経て、足利義満の補佐として細川頼之が管領職に就任し、その優れた政治によって乱世が太平の世を迎えるまでを描く。
* 全巻構成 *
◇ 太平記 (一)
鎌倉幕府の滅亡に始まる南北朝の動乱。北条一族の終焉、楠正成らの知勇が支える後醍醐天皇の新政権、足利尊氏の離反と南朝北朝の分離、室町幕府の成立……。数十年にわたって列島を揺るがした巨大な戦乱を記す『太平記』(全四十巻)。後世に深甚な影響を与えた書の古態を伝える室町初期の「西源院本」に、初の校注を加える。
◇ 太平記 (二)
元弘3年(1333)、後醍醐帝の綸旨を得て、足利尊氏は北条一族追討の兵を挙げる。新田義貞・赤松円心らが加わった倒幕軍の勢いは止まらず、五月、北条高時以下873人が自害、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。だが、京に戻った後醍醐帝の親政はやがてほころびを見せ、建武政権に反旗を翻した尊氏は、九州へ落ちる。
◇ 太平記 (三)
建武3年(1336)5月、足利軍との戦いに敗れた楠正成は湊川で自害し、暦応元年(1338)閏7月新田義貞も流れ矢に眉間を射られて討死した。南朝の勢力が衰える中、武家は公家を軽んじ、佐々木道誉は延暦寺の門跡寺院を焼き討ちする暴挙に出た。2年8月後醍醐帝は病となり八宮への譲位などを遺言して崩御した。
◇ 太平記 (四)
貞和四年(1348)、楠正成の子正行が父の十三年忌に際して挙兵し、山名時氏と細川顕氏の軍を破った。これに対し高師直・師泰兄弟が楠討伐に向かい、正行・正時兄弟は戦死し、師直は吉野南朝の皇居を焼き払った。その後師直は足利直義と対立し観応の擾乱となったが、観応二年(1351)武庫川で上杉能憲に討たれ、高一族は滅亡した。
◇ 太平記 (五)
観応2年(1351)2月高師直・師泰が討たれた。延文3年(1358)4月には足利尊氏も病死し、12月に義詮が征夷大将軍に就任した。南北の争いが続く中、康安元年(1361)には京都で大火・疫病・大地震が発生、南朝軍が進攻した。有名な「神霊矢口渡」や大名佐々木道誉のエピソードも挿まれ、バサラの時代が語られる。
◇ 太平記 (六)
十四世紀半ばの観応の擾乱、尊氏の死、有力守護大名の没落のあと、年少の将軍義満の補佐として細川頼之が管領職に就任、その優れた政治によって、さしもの乱世も「中夏無為」の太平の世を迎えることになった。南北朝五十余年の争乱の世を雄渾な筆致で描いた歴史文学の大著『太平記』がここに完結する。