[BOOKデータベースより]
近代文学を「見立て」という「芝居」的な観点から捉えると何がわかるのか?「芝居」と“近代批評”を接続する。“女性独白体”における「女性」とは何か?性別を二分することの必然性が突き崩されているいま、近代文学のテクストをどう読んでいくのか。
序章 近代文学の「芝居」と「女性」―「見立て」と「女語り」の観点から―
第一章 近代とは何か―明治二十年代と「芝居」(斎藤緑雨「かくれんぼ」論―「芝居」という装置―;斎藤緑雨「油地獄」論―「女殺」を欠く“地獄”―;斎藤緑雨「門三味線」論―常盤津の物語;坪内逍遥「梓神子」論―近代への接続)
第二章 太宰治の「女語り」1―構築される「女性」―(太宰治「燈龍」論―“記録”される言葉と“記憶”による語り―;太宰治「きりぎりす」論―“剥奪”の先の希求;太宰治「千代女」論―「わからな」い少女;太宰治「皮膚と心」論―「女」化する「私」;太宰治「待つ」論―待つてゐる「私」の“姿勢”;太宰治「饗応夫人」論―「饗応夫人」になる「私」)
第三章 太宰治の「女語り」2―「芝居」の中の「女性」―(太宰治「おさん」論―小春の欠如と見立てられた「おさん」―;太宰治「ヴィヨンの妻」論―『仮名手本忠臣蔵』への接近と離脱―)
附章 コリア語からの視点―翻訳と物語―
終章 「芝居」と「女性」、その接点について―「見立て」られる「女語り」―
日本の近代文学テクストを「芝居」と「女性」という2つのキーワードを中心に据えて論じる。
主として斎藤緑雨と太宰治という二人の近代文学者に焦点を当て、同時代の言説や同時代の社会文化状況、当時既に成立していた文学や芝居のような先行テクストを足掛かりに、小説テクストの分析を行う。
1つ目のキーワードは「芝居」。その大衆性ゆえに、題材として、引用として、描写の一部として、近代文学のなかで重要な役割を占め続けた。その知識を研究の俎上に載せることで、テクストを今一度読み替える。特に「見立て」という「芝居」的な観点から近代文学を捉えると何がわかるのか?「芝居」と〈近代批評〉を接続する。
2つ目のキーワードは「女性」である。太宰治の「女語り」、いわゆる〈女性独白体〉における「女性」とは何かを考える。性別を二分することの必然性が突き崩されているいま、近代文学のテクストはどう読んでいくとよいのか。
第一章「近代とは何か―明治二十年代と「芝居」―」、第二章「太宰治の「女語り」@―構築される「女性」―」第三章「太宰治の「女語り」A―「芝居」の中の「女性」―」及び附章「コリア語からの視点―翻訳と物語―」の合計14節より成る本書は、解釈を何よりも重視し、物語と向き合った、日本近代文学「芝居」「女性」論である。
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