2014年 7月号
有吉玉青
いちばん好きな人のこと
「ソボちゃん」とは、祖母の有吉秋津のこと。ふざけて、祖母をそう呼んでいたことがあるのです。私は、仕事で忙しい母・佐和子にかわって、この祖母に育てられました。おばあちゃんこです。
ソボちゃん、大好き。祖母は昔も今も、わが最愛の人です。でもそれは、祖母が私の祖母だったからだけではありません。
祖母は、なんと言ってもかっこいい人でした。明治に生まれ、大正デモクラシーの洗礼を受けた「進歩的女性」。戦前は銀行員の祖父が赴任したインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)で暮らしたこともあり、その思い出を終生大事にしていました。
バタビアには、小学生だった母も一緒に行っています。一家が暮らしたところを見てみたいと、一昨年、ジャカルタに行きました。自分が生まれるずっと前に、祖父母一家が暮らした街を歩く―それは不思議な感慨です。何かを感じたくても感じられないようなもどかしさ、でも実は感じていて、自分が虚実のあわいにいるような感覚と言えばいいでしょうか。
ジャカルタの街を歩きながら、ふだん忘れていた思い出も次から次へとよみがえりました。友達と喧嘩して泣きながら帰ってきたら、「こんないい子はなにぬねの」と言って抱きしめてくれたこと、外国じこみだというテニスを教えてくれたこと、そして祖母と母のこと……。
こんな話を聞いたことがあります。母は25歳でデビューすると、小説やエッセイ、さらに舞踊劇を書き、対談にテレビのクイズ番組にレギュラー出演と忙しく飛びまわりますが、そんな娘にあるとき祖母がぴしゃりと言いました。
「あなたが何を書いたというのか」
このひと言に、母は乾坤一擲、『紀ノ川』に挑みます。和歌山の祖母の実家を舞台にした自伝的小説で、これは母の出世作となりました。
祖母のこの言葉がなかったら、母は母になっていなかったでしょう。祖母は母親として、母を叱咤し激励し、大いなる愛情で包んでいました。さらにお客様の応対から資料の整理、税金の計算に至るまでを一手に引き受け、まるで秘書のように母を支えました。
そして、母を送りました。1984年の夏、母は急性心不全で、祖母より先に逝ったのです。53歳でした。けれども祖母は涙も見せず、晩年を凛々しく生き抜きました。
母は今年で没後30年です。この間に、私の母に対する見方もかわりました。というより、母が亡くなった当時、20歳だった私は、まだ何もわかっていませんでした。
母が家事をしないで仕事ばかりしていることに批判的でしたが、家事はしないのではなく、できなかったのでしょう。そして母は祖母がいたから書けたのだと、今でははっきりとそう思います。
私は誰よりもソボちゃんが好きでしたが、祖母は母のために私の面倒を見ていたのかもしれない、私より母の方が大事だったのかもしれないと、この本を書きながら、ちょっとだけ母を妬きました。
(日販発行:月刊「新刊展望」2014年7月号より)