2013年 7月号
葉室 麟さん 『陽炎の門』
「人生の宿題に自分なりの解答を与えてみたい」─そんな思いで執筆した作品だという。
「この齢になると友達の大半も定年退職を迎え、会社員人生を振り返ることが多くなりました。組織では皆、誰かを押しのけたり裏切ったり、リストラや望まない配転をさせた経験もあります。あのときの判断は正しかったのか、相手を傷つけてしまったのではないか。その気持ちがどこか後ろめたさになっている。私自身にもそれが人生の宿題として残っていると最近特に思うようになったんです」
豊後・黒島藩で三十七歳の若さにして執政に昇進した桐谷主水。職務において冷徹非情、あだ名は〈氷柱の主水〉。派閥抗争で親友・芳村綱四郎を陥れて地位を得たと囁かれている。年若い妻・由布は綱四郎の娘だった。由布の弟・喬之助が仇討ちに現れたとき、十年前に綱四郎を切腹に追いやった事件が再び動き始める。綱四郎を己の手で介錯し、今も夢にうなされる主水は思い惑う。自分は親友を無実の罪で死なせたのか─。
「主水は決して罪なき人ではない。だが、それはどれほどの罪なのか。彼は苦境にどう挑むのか」。そこから発した本作には、多くの葉室作品に見られる「清廉潔白な主人公」「心温まる物語」の要素はない。その意味では異色作といえる。出世争い、派閥の対立、理不尽に対して声を上げられない空気……自分が属する組織と重ねる読者も多いだろう。企業社会が抱える矛盾、その中で自分を殺して生きねばならないことへの憤りを伏流に、組織人としての一つの生き方を、著者は主水に託した。
「主水はいわば自分の仕事を全うしただけ。ところが人生の罠のように、それが罪だったかも知れないという状況に直面するわけです。よく思うのですが、生きていれば誰でも一度は過ちを犯す。子どもの頃は無垢であっても、成長の過程ではどこかで挫折や失敗を経験し、何らかの罪を犯すことはある。しかし、そこからその人の人生は始まるのだと思います。傷にどう対峙するかで、人生の深みや高さは決まっていくのだろうと」
主水は藩主に向かって言い放つ。〈それがしは不義不忠の悪臣である〉。「自分が世の中の価値観で否定されるのではなく、自分の価値は自分で決める。そうありたいと思います。この場面は書き始めたときに既に決めていて、どれだけ確信を持って主水が言い切れるか、書いていく中でいろいろ考えた。そんな作品です」
自身が推理小説好きという葉室麟さんの歴史時代小説は、ミステリー的趣向を帯びることが多い。今作は特にそれが色濃い。 「ミステリーの中でも私が好きなのは、犯罪のテクニックや仕掛けよりも人間性によって一瞬でどんでん返しになるというタイプ。それを書くために、今回は最初から謎を仕掛けました」
登場人物たちの謎が明らかになるとき、読者が目の当たりにするのは、人間の醜さ、哀しさ、そして「人が生きていく上で大切な何か」である。
(日販発行:月刊「新刊展望」2013年7月号より)
今月の作品
- 陽炎の門
- 職務において冷徹非情、若くして執政の座に昇った桐谷主水。かつて派閥抗争で親友を裏切り、今の地位を得たと囁かれている。友を陥れてまで、己は出世を望んだのか。最上の哀切と感動が押し寄せる著者最高傑作。