【特集】 ニシカナコ的世界
[インタビュー] 西加奈子さん │ [特別寄稿] 神に選ばれし関西人 │ エディターズガイド『ふくわらい』
西加奈子さんに初めてお会いしたのは、確か四、五年前だったと思う(もっと前だったかな?)。友人の誕生日にかこつけた中目黒での飲み会、そのとき、一人だけとても独特な雰囲気を放つ人がいた。どこか異国情緒の漂う顔立ちと、エスニックなファッション。あいさつをすると、「こんにちは!」と、ものすごい笑顔でこちらのガードを下げに来た。あまりのフレンドリーさに、一瞬外国人かと思ったほどである。それが西さんだった。彼女が耳につけていた巨大な三日月の飾りが、死者が乗る船っぽかったので、
「耳飾りが、死者が乗る船っぽいですね」
とそのまんまのことを言うと、西さんは満面の笑顔で「え、マジで? 乗ってそう? ここに?」とうれしそうな顔をした。今考えると、よくわからない会話だが、それ以来、仲良くさせていただいている(西さんは、酔うと机の下がベッドに見えるらしく、よくそこで寝る)。
テヘラン生まれと経歴にはあるが、西さんと接していると生粋の関西人だなと思わされる。関西人はなんでもかんでも笑いにしないと気が済まない。そしてシリアスになり切れない。「俺、鬱病でもう死にたいねん……」とか言われてもボケにしか聞こえないし、「んなわけないやろ!」とつっこまなくてはならないような気分になってしまう。これは大阪弁というものの宿命である。だが、故中島らもを例にとればわかるように、関西人にだって、心の闇が存在する。ただ、年がら年中アホなことばかり言っているので、それはとても理解されにくい。
以前、親友に不幸があったとき、たまたま西さんと電話で話していて、ぼくは唐突に泣いてしまったことがある。別につきあっているわけでもない女性にそういう甘えた態度を見せるのは、これはもう失礼としか言いようがないのだが、このとき西さんは慰めるでもなく、気休めを言うのでもなく、「つらいよなぁ」と、関西弁でそう言った。それは心の底から共感してくれていると感じられる温かみのある言葉だった。
宗教学者の友人によれば、キリスト教において、共感とは「ともに痛むこと」、という意味が根底にあるらしい。他人の痛みを自分の痛みとして受け取れる感受性を持った人をぼくは畏敬する。西さんの持つ、いろいろな人の痛みに寄り添うことができる才能。それはときに、とても苦しいことだろう。だけど彼女はそういうそぶりを見せない。彼女が持つもうひとつの才能が、痛みを中和しているのだと思う。
彼女がもつ、もうひとつの才能とはなにか。
それは、「笑い」である。
彼女は痛みに寄り添うだけではなくて、笑いに寄り添うこともできる。だいたいの関西人には「人を笑わせる」という才能がある。が、それを十全に発揮できる「神に選ばれた関西人」というのは関西人のなかでも一割に満たない。ほとんどが残念な「関西弁を使うつまんねぇウゼえヤツ」なのである。しかし彼女には「笑い」の才能があった。
ともに痛むだけではなく、ともに笑い、笑わせることができる。それは希有な才能だ。
でもたぶん、そんなことを言っても西さんは「そんなだいそれたことしてへんてー」と照れるのだろうけれども。
(日販発行:月刊「新刊展望」2013年2月号より)
[インタビュー] 西加奈子さん │ [特別寄稿] 神に選ばれし関西人 │ エディターズガイド『ふくわらい』
Web新刊展望は、情報誌「新刊展望」の一部を掲載したものです。
- 新刊展望 2月号
- 【主な内容】
[まえがき あとがき] 中村彰彦 真田幸村のことなど
[特集] ニシカナコ的世界 西加奈子/海猫沢めろん