2014年 3月号
柚木麻子さん 『その手をにぎりたい』
1983年、東京。日本がバブル景気に沸き立つ、ほんの少し前。小さな家具メーカーに勤める24歳のOL・青子は、上司に連れて行ってもらった銀座の鮨屋「すし静」で、若い職人・一ノ瀬と出会う。その店は、握ってもらった鮨を職人の手から直に受け取って食べるという、知る人ぞ知る老舗の名店だった。その完璧な仕事が施された味と、店で過ごす特別な時間に魅せられた青子は、決して安くはないその店に、自らの力で通うことを決意する。不動産会社に転職し、営業の第一線で活躍するようになった青子だが、時代はバブルの狂乱から崩壊へと混迷を極め、青子と一ノ瀬も、その時代の波に翻弄されていく──。
「すし静」のモデルとなったのは、浅草にある実在の鮨屋だ。客に鮨を手渡すのは、ふんわり握られた舎利がネタの重みで沈まないようにするため。取材のために何度か通い、触らせてもらった大将の手は、「氷のように冷たくて、酢や塩に負けて指紋がまったくないんです。その手に触れたとき、彼のおかれた職人としての厳しさがわかった気がして、手を使って、血の通った仕事にストイックに向き合う男性のカッコ良さを書きたいと思いました」。
地方出身の友人が「苦手」と語ることの多い、「次々に古いものが淘汰される、嘘っぽくて作り物めいた東京」が大好きという柚木さん。その東京が形作られた高度成長期は、「女の子もちょっと背伸びをすればお金を稼げるようになった時代」であり、高級な鮨屋でも常連になれてしまうつらさがあるのではと、物語の舞台をバブル崩壊までの10年間に設定した。
自身は回転寿司とファストファッションを好み、飲みに行くより友だちとファミレスでしゃべっているほうが楽しい、贅沢を知らない〈不景気世代〉。「それを悪いことだとは全く思っていないのですが、どこかで手の届く範囲の幸せしか知らないのは、つまらないな」という気持ちも。だからこそ「たとえ叶わなくても、無謀なことに挑戦する姿に惹かれる」と語る。
80年代の本や歌、テレビドラマを通して見えてきたのは、「強がって、身の丈に合わないことをして傷ついてしまう女の子たち」。一ノ瀬に惹かれる青子も、女性総合職の走りとして懸命に働き、「すし静」に通うために多額のお金を費やしながら、常連としての立ち位置を必死に守ろうとする。
「今は、無理や贅沢は良くないし、無駄なものに時間や心を遣う必要はないという逆の圧力を感じる時代。でも、鮨に外車が一台買えるくらいのお金を使った青子の10年は、彼女の中ですごく栄養になっている、豊かな時間だったと私は思うんです。この作品を読んで、無茶な夢を見たり、片思いをしてしまった人たちに、その時間を無駄ではなかったと思ってもらえたらうれしいですね」
贅沢を謳歌した時代を描くことで、今を生きる私たちの心の有り様を考えさせられる。そんな意欲作だ。
(日販発行:月刊「新刊展望」2014年3月号より)
今月の作品
- その手をにぎりたい
- 1980年代。OL・青子は、偶然入った鮨店で衝撃を受けた。そのお店「すし静」では、職人が握った鮨を掌から貰い受けて食べる。青子は、その味にのめり込み…。恋と仕事とお鮨に生きる、バブル期OL大河小説。
柚木麻子さんにとっての「トクベツな3冊」
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