2012年 12月号
横山秀夫さん 『64(ロクヨン)』
日本の警察小説をこの人不在のまま語ることは出来ないのである。今までも、そしてこれからも。だから歓喜しよう、横山秀夫さんの七年ぶりの帰還を。『64』はまさに復活作の名にふさわしい。最高の警察小説だ。
平成の大合唱にかき消されるようにしてわずか七日間で幕を閉じた昭和六十四年。D県警史上最悪の誘拐殺人事件はこのとき発生した。それから十四年。身代金を奪い、少女を殺害した犯人は未だ不詳のまま、事件は風化しつつある。「ロクヨン」とは、この未解決事件を指す警察内の符丁である。
〈D県警〉といえば、『陰の季節』の〈二渡警視〉を思い出す読者も多いだろう。今作の主人公は二渡の同期、三上義信。事件発生時に犯人を追った刑事の一人だが、現在は警務部秘書課広報室勤務。いつかは刑事復帰をと願っている広報官である。私生活では、三か月前に家出した一人娘の行方を妻とともに探し続けている。
横山作品を貫く「組織の中で生きる個人」の主題はもちろん健在。「いわば大前提。今回はその上で家族の問題、マスコミとの関係、上層部の圧力や部下との絆といった小テーマそれぞれを、小説全体のテーマのような気持ちで書いていました。どれも疎かにはできず、いろいろなことを抱えたり背負ったり引きずったりしながら、物語全体を動かしていったんです」
刑事部vs警務部、県警vs警察庁、キャリア組vs叩き上げ、広報官vsマスコミ─いくつもの対立の構図を抱え込んで、三上を取り巻く風景は歩みを進めていく。そして後半、思いもかけない形で姿を現す「ロクヨン」。そこから物語は一気に加速し、強烈な熱を帯び、心震わす結末に向かうのである。
元来は『陰の季節』『動機』に続く三冊目、書き下ろし長編として十一年前に着手した作品だという。だが執筆依頼が殺到し、激務から心筋梗塞で倒れてしまったほどの人気作家の傍らに、未完の『64』はあった。七年前、『震度0』刊行後、再び本作に向かうことを決めたのは「これを投げ出したままではほかのものを書いても魂が入らない。まずは目の前の高い山を登ろう」との思いから。「けれど自分が思い描く『64』への道のりはとてつもなく困難で。初めて筆が止まってしまった」。それでも三年前には本の発売日まで決定。にもかかわらず「納得の出来ではない。このままでは出せない」と覆してしまう。そんな状況が重圧ともなり、悲鳴を上げ始めた作家の心身。沈黙の七年間には「廃業を考えた」ほどの苦難の日々もあったのだ。「最終的には時間が解決してくれた。最後は『これを書かずに死ねるか』というほどの思いで一気に書き上げました」
以前から「現実の死より社会的死を恐れる」と語っていた著者である。「社会的臨死体験もしました。こんな臆病な人間が書いた小説なんです」
組織と個人、職務への矜持、人間の情。重厚な人間ドラマが織りなす骨太な物語。著者が全身全霊で送り出した一冊は、二〇一二年の読書界が授かった幸せでもある。
(日販発行:月刊「新刊展望」2012年12月号より)
今月の作品
- 64(ロクヨン)
- D県警史上最悪の重要未決事件「64」。この長官視察を巡り刑事部と警務部が敵対する。その理由とは。さらに衝撃の展開が…。怒涛の展開、驚愕の傑作ミステリー。警察小説の真髄が、人生の本質が、ここにある。