【特集】 新島八重の物語
藤本ひとみ『幕末銃姫伝』『維新銃姫伝』 │ エディターズガイド『明治の兄妹 新島八重と山本覚馬』
時は幕末。会津藩。砲術指南役の家に生まれた山本八重は、「女のあるべき姿」からはみ出してしまう自分に悩んでいた。腕力に自信はあるが裁縫は苦手。女ゆえに藩校で文武を学ぶことも許されない。けれど兄・覚馬の薫陶を受けて蘭学や数学、そして鉄砲や大砲の技術も習得していく八重。戊辰戦争の鶴ヶ城籠城戦では、自ら銃を携え大砲を指揮して闘う――。
武士の誠を尽くしながら幕府と朝廷の間で翻弄される会津藩の姿と、会津における八重の半生を描いた『幕末銃姫伝』は、二〇一〇年五月に出版され、好評を博した歴史小説である。このほど文庫化され、あわせて続編『維新銃姫伝』も登場した。
明治元年、会津藩降伏。藩士の多くが陸奥国斗南藩へ移住する中、女ばかりとなった八重の家族は縁を頼って米沢に向かう。やがて兄に呼び寄せられ京都へ。廃藩置県、明治六年の政変、西南戦争――時代は激しく動いていく。佐賀戦争では再び銃を取る八重。兄を訪ねてきた新島襄の新しい考えに魅かれ、ともに同志社英学校の設立に尽力することとなる。
幕末・維新の動乱の世を生き抜いた八重という女性。会津藩士の娘としての生き方に対する葛藤、幼なじみへの淡い恋心も細やかに描かれた小説である。著者の藤本ひとみさんに聞いた。
銃姫としての生き方、そして恋
―西洋、特にフランスの歴史小説を数多く手がけてこられた藤本ひとみさんが、今回、幕末の会津を書こうと思われたのはなぜですか。
藤本 入口はナポレオンです。彼が各国の兵法に影響を与えていたことを、あるときナポレオン側の史料で知りました。調べてみると、江戸時代の日本にも彼は非常に大きな影響を与えたことがわかりました。それを日本の側から書いてみたいと思いつつ史料を探していたときに、八重さんに出会ったんです。
西洋から日本に砲術が入ってきて、それが現実味をもって研究され始めたのは幕末で、佐久間象山など江戸に塾を開いた学者はしきりにナポレオンを取り上げました。佐久間象山の弟子だった勝海舟も傾倒しています。山本覚馬は江戸で佐久間象山に学び、後には勝海舟の下に入りました。そこで新しい兵法を学んで会津に持ち帰り、妹の八重さんに教えたんですね。
―八重さんのどんなところに興味を感じられましたか。
藤本 鶴ヶ城籠城戦の体験談が残っていて、そこで八重さんは「一番心配だったのは、カワヤのこと」と語っています。つまり、トイレに行っているときに砲弾が飛んで来たらどうしようかと思ったと。この時代の女性は、カワヤのことなんて口に出さなかったと思います。それに、籠城中に大変なことはいくらでもあったはずで、何もカワヤのことを持ち出す必要はないですね(笑)。同じ経験談の中でそんなことを語っている女性はほかにいません。これは当時の普通の女性とは感性がかなり違う人だなと、たいへん興味を覚えました。それが最初でしょうか。その後も調べていくと、十二、三才のときに四斗俵を四回肩に上げ下げしたほど力持ちだったとか。六十キロですよ。なんて型破りな人だと思いましたが、それ以上に、当時の女性にとって怪力というのは決して自慢できることではなかったはずなのに、それを気にしている様子が全然ない。これでは当時の社会には馴染めなかっただろうなと。そこから彼女の人物像を作っていきました。
―史料の中の八重さんに息吹を与え、小説にされていくとき、藤本さんならではの八重さん像はどんな部分で表現されましたか。
藤本 史実にはまったくないことですが、八重さんの恋を創作しました。「自分は女性から外れている」という感覚を抱く彼女を書きましたが、同時に、女性としてやっぱり恋に憧れたり恋を求めたりしたこともあったのではないかと。当時の人は親に決められた相手と結婚しました。そんな中で彼女が心に抱き続けている人がいたら、それはきっと素敵だろうなと思いつつ、物語全体の伏流にしてみました。
―その相手が、幼なじみの山川大蔵ですね。『維新銃姫伝』では彼の出番がより多くなります。
藤本 『幕末銃姫伝』『維新銃姫伝』ともに、二つの視点から時代を書きました。会津藩を代表する人物を片方に立てたかったんです。『幕末−』では兄の覚馬。会津藩を新しくしようと活躍した人だと思いますので、彼を通して幕末を書きました。『維新−』では山川大蔵を通じて、維新の中で会津藩がどう動いていったかを書きました。どの時代の空気にも色があり、生きる人たちを染めている――その色をとらえて、人間を書きたいと思っています。色を出すときに山本覚馬や山川大蔵を使い、八重さんで人間を書こうと思ったわけです。
また、二作に共通することですが、幕末、維新という従来の価値観が大きく変わる中での家族の姿も書きたかった。ですから、八重さんを中心にしながら家族にも焦点を当てました。両親、兄、八重、弟。きちんと暮らしてきたこの家族が、戦死や離別で幕末には崩壊に向かい、維新後、再生していく。そういう流れも書きたかったので。
この物語は、幕末に苦闘した会津藩の人たちに捧げるものでもあります。会津士魂や会津武士とは、そして会津の女とはどんなものであったのか。死んでしまった人もたくさんいたけれど、傷を背負って維新を生き抜いた人たちの姿を、八重さんを通じて書いていきたいと思いました。
故郷、会津
―『維新銃姫伝』は一八七八年の出来事で幕を閉じます。八重さんの生涯はこの後も続くわけですが、第三作を書かれるご予定はありますか。
藤本 八重さんの人生の、会津開城までを『幕末−』、その後西南戦争までを『維新−』で書きました。会津藩の崩壊は幕末の象徴、また西南戦争が維新の終結との見方です。新島襄と出会い、同志社英学校を開いて軌道に乗った辺りが明治十年でした。以降、新島襄を看取り、福祉活動に精を出し、晩年は茶道にも心を傾け、長寿を全うした八重さんですから、もし読者の方々からご希望があるなら、その後も書きたいと思います。
八重さんは、良いか悪いか、幸せか不幸か、そんなふうに二極的には分けられない人生を送った人だと考えています。晩年はキリスト教に深く帰依し、いつも「感謝」という言葉を口にしていたそうですが、改宗した当時の思いには複雑なものがあったのではないでしょうか。それが晩年に向かってだんだん昇華されていったのではないかと。
―当時の女性の枠からははみ出してしまう八重さんが、「自分らしい生き方」を見つけていく。そんな物語に勇気づけられました。
藤本 八重さんの前向きな姿勢をこの小説から読み、今を生きる糧にしていただけるとうれしいです。
会津における八重さんは、今まで地味な存在だったんです。ですから史料も少なく苦労しました。会津を代表する女性といえば、中野竹子や山川捨松。八重さんは決して会津を背負っていると言われる人ではありませんでした。その理由の一つは、開城以降、八重さんが米沢に行き、その後、京都の兄のもとに引き取られたことにあると思います。また、キリスト教信者になったということもあるのでしょうか。でもNHK大河ドラマに取り上げられることになり、会津は八重さんでとても盛り上がっているようです。「良かったね、八重さん。会津の人が皆で応援してくれてますよ」。そう言ってあげたいです。
信念を持って生きた人々
―幕末、維新という時代もいま注目されています。
藤本 価値観が激動する中で明日をどう生きるか、みな必死だった時代ではないかと思います。その中で古い価値観に殉ずる人もいれば、新しいものを信じて取り入れ生き延びる人もいた。どちらにしても信じたことに命を賭ける、颯爽とした生き方が当時の人々の心の中にはあったと思います。人間として非常に清々しく、信念を持ったその生き方に憧れますね。
今は価値観の激動どころか、価値観粉砕という感じ(笑)。あらゆる自由があり、情報はあふれ、価値観も多種多様です。絶対的なモデルがないんですね。それは、自分が信じるべきものをつかみにくいということでもあります。その中で信念を持つのは大変なことです。幕末は、朝廷を奉じるか幕府を奉じるか、二つに一つしかなかったから信じるものをすぐ見つけられた。今は考えなければいけないことがいっぱいあって複雑ですし、わり切れない。一つのものに命を懸けて生きることができた幕末という、ある意味、明解な時代に、あるいは颯爽とした生き方に憧れを抱くのではないかと思います。
―幕末を舞台にした小説をこれからも書いていかれますか。
藤本 やはり会津藩の藩士を主人公とした「幕末京都守護職始末」シリーズの続きを書いていきたいと思います。幕末の政治が一人の人間にどのような影響を与えたか。激動の中で傷を受けた人間がどのように生きていったか。それも勝者、政府側の人間ではなく、被害を受けた人たちの人生を書きたい。これは西洋史を書くときも同様なのですが、名もない人、つらい思いをした人たち、それから今では死んでしまって自分で名誉回復をできない人々の真の姿を、ていねいに書いていくつもりでいます。
(2012.11.21)
(日販発行:月刊「新刊展望」2013年1月号より)
藤本ひとみ『幕末銃姫伝』『維新銃姫伝』 │ エディターズガイド『明治の兄妹 新島八重と山本覚馬』
Web新刊展望は、情報誌「新刊展望」の一部を掲載したものです。続きは「新刊展望」2013年1月号で!
- 新刊展望 1月号
- 【主な内容】
[まえがき あとがき] 東川篤哉 カブってた話
[特集] 新島八重の物語 藤本ひとみ/鳥越 碧