[BOOKデータベースより]
江戸の「開かれたテキスト」が普遍へと通じる可能性と「国文学」なる学の問題について考える。
江戸のテキストを読むということ
第1部 秋成を読む(「白峯」に見る「和」―「隔生即忘」を強いる西行;連帯する「孤独」―「菊花の約」の「友」 ほか)
第2部 西鶴を読む(決定不可能性としての「不思義」―『西鶴諸国はなし』巻一の二「見せぬところは女大工」考;境界上の独身者―『西鶴諸国はなし』巻四の七「鯉のちらし紋」考 ほか)
第3部 源内を読む(宙吊りの地獄―『根南志具佐』の世界;都市神話としての可能性―『根南志具佐』の「根」についての考察 ほか)
第4部 「国文学」の批判的考察(批判の学としての「国文学」;「無常」と「美」の日本的連関についての批判的考察―『方丈記』と『徒然草』、『雨月物語』「浅茅が宿」を通じて)
優れた文学テキストは、作者の意図や同時代の共通理解をはみ出してしまうことで、ある種の普遍性に到達するのではないか――。
今日私たちが「古典」とするものの多くは、書籍の公刊が可能とした知識の共有に因るところが大きいが、本書は、日本近世期における文学受容の在り方として特徴的な、そういった公刊された作品を対象とし、特定の時代背景や限定的な人間関係だけに還元されることのない読みを通じて、「古典」が「開かれたテキスト」であることの意義について考える。
具体的に上田秋成、井原西鶴、平賀源内という三人の作者について、その作品を取り上げ、作品論のかたちで個別に考察する。またそれを踏まえ、一国や一時代の文化や伝統を賛美し、それを規範と見なすような発想に対して批判的考察を加え、自文化中心主義や尚古主義、そして「国文学」なる学の問題についての検討も行う。
江戸のテキストから古典を考え直し、「国文学」を批判的に考察する書。
【私は、伝統や古典文化をそれ自体否定的に見るつもりはない。しかし、それを美化することによって現在を低く見積もるような発想は断じて受け容れることはできない。「昔はよかった」、「過去に学べ」といった、一見罪もなく素朴に見える、それでいて何かしら一定の知恵をたたえたかのように思わせる物言いは、しかし過去を権威として振りかざし、現在をよりよく生きようとする人々を抑圧し毀損する暴力性を確実に秘めている。過去のある時期が、疑問や批判も抱かずに生きることのできる全一のものであった、それ故に幸福であった、体制に対する批判などというのは後代のさかしらであるなどという物言いは、そのまま全体主義国家を支える論法そのものであると私は考える。もちろん世の中には全体主義の何が悪いのかという考えもあるだろうし、過去にも現在にもそれに基づいて成り立った国家や集団は存在する。しかし私自身はとてもそのようなところで生きることはできないと確信するので、自らの生存権をかけて、そのような発想は峻拒する。】……「序 江戸のテキストを読むということ」より
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