2012年 9月号
岩井三四二さん 『あるじは家康』
三人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。彼らをあるじと仰ぐ者たちの悲喜こもごもの物語は、同時に信長、秀吉、家康の人物像をも浮かび上がらせる─。『あるじは信長』(二〇〇九年刊)、『あるじは秀吉』(二〇一一年刊)に新刊『あるじは家康』が加わり、シリーズ三作となった連作短編集である。
「戦国ものを書くのも、だんだんネタに困ってきます(笑)。有名な人物は既に書かれているし、かといってあまり知られていない人の話は、読者の方に手に取ってもらうのが難しい。自分では手垢のついていない人物を書きたいんですけどね。そこで、有名人の名前を借りながら無名の人を書くという戦略で、いろんなニーズを満たそうというのがこのシリーズです」
『あるじは家康』には七編が収められている。家康の一生を追い、幼少時から死後数年に至るまで、約十年ごとのエピソードが並ぶ形である。各話の主役をつとめる家臣は、石川数正、蜂屋半之丞、奥平貞昌、茶屋四郎次郎、松平家忠、三浦按針、大久保忠隣。かなり名の通った人物もいれば、そうでない者もいる。何より興味深いのは、彼らの目を通した家康の姿が、後世の我々が考えるそれとはかなり食い違っていることだ。
「家康は“名君”と言われ、現代では“偉大な経営者”的に語られることも多いですね。史料では〈神君〉と書かれているほど神格化されてもいる。でも実際のエピソードを読むと、神様とはかけ離れていて(笑)。天下を取ったことでは確かに名君ですが、世間のイメージとは違った色を私は出してみたいと思いました。人間臭くてエゴイストでもある家康像です」
あるじと家臣が固い絆で結ばれ、戦国時代最高の結束力を誇ったといわれる「三河武士団」。その印象もまた大きく変わる。組織に生きる人間として、彼らにもホンネとタテマエがあったというわけだ。
それぞれの物語には「勇者(けなげもの)」「裏切者」「有徳者(うとくもの)」「親族者(うからもの)」など、すべて「○○者」の表題が付されている。いずれも主人公となる人物を投影していて、奥深い。たとえば、「忠義者」は大久保忠隣。人生の終わりに突如として主君家康に裏切られた彼のささやかな復讐は……という皮肉なタイトルである。「粗忽者」は石川数正。駿河今川家で人質として過ごす竹千代(幼少時の家康)の子守りだった若き日の物語。長く家康の片腕として働きながら、後に出奔し、秀吉の飼い殺しとなってしまった石川数正に対して著者は、「エリートとして上り詰めたけれど、根本的に何か間違っていて転落してしまう政治家みたいな」イメージを抱いているのだとか。「異国者」は三浦按針ことウィリアム・アダムス。イギリスへの帰国を切望するも、家康は放してくれない。ぽろりと本音をこぼす大御所家康の素顔がおもしろい。
シリーズ三作、手に取る順序はお好み次第。自分なら誰の下で働きたいかと思いめぐらすのも一興だ。
(日販発行:月刊「新刊展望」2012年9月号より)
今月の作品
- あるじは家康
- 天下を取れたのは、主従の結束力とは言うけれど…。組織に生きる男たちのホンネとタテマエ。主人公は有名無名の家臣たち。彼らの目を通して、家康の意外な素顔を浮き彫りにしていく連作短編集。