2012年 3月号
石田千さん 『きなりの雲』
やわらかな文体と、瑞々しい、情緒あふれるエッセイや短編小説で着実にファンを増やしている石田千さん。著者初めての長編小説である本作は「読む人がほっとするような小説を」という提案を受けてのことだったというが、「書き始めてみたら、ずいぶん痛めつけられている女の人が出てきてしまったので、この人をほっとするところまで連れていこうと思いながら書きました」。
築四十七年のアパートに住み、編みものの製作や講師で生計を立てながら、つましい生活を送っているさみ子。四十歳にして手ひどい失恋をし、半年間籠城%ッ然の生活を送るが、体の不調を機に日々の暮らしに立ち戻っていく。
「〈ほっとする〉ところにいくためにはゆっくり考える時間が必要で、それは頭でわかるのではなく、体の動きで消化していくものだと思うんです。たとえば体調をたてなおすための料理であったり、散らかったこころを見つめるための掃除であったり。(さみ子には)その中でじっくり自分と周辺を受けとめてほしかった」
本作のみならず、石田さんの作品は体の動きや触感、体感など「身体」を通して沁みこんでくる表現が魅力だ。「たとえば卵焼きを作ることを書くにしても、どんな卵焼きかと頭で考えて形容するより、作る動作や空腹な状態といった体の感覚を信用しています。自分にできること、やってきたありあわせで内面をわかってもらおうとすると、筋肉や内臓の動き、手の仕事といったことを採集して書くようになりますね」。
日々の暮らしに戻ること。すなわちそれは、自分を取り巻く人々の中へと帰っていくことでもある。
「誰もが自分の中に波風を抱えて生きているわけですし、自分だけが大変なのではない。そのことに改めて気づくことが、悲しみから解放される一歩だと思うんです」
古いながらも趣のあるアパートに暮らす住人たちや、編みもの教室に集う人々との間に交わされるいたわりも、立ち止まっていた時間があればこそ、いっそう温かみを増す。
やがて、さみ子はある事件をきっかけに、一度は離れてしまった恋人・じろうくんと再会し、さみ子が姉のように慕い、陰日向になって彼女を応援する玲子とその夫には、思いがけない葛藤が訪れる。「(人間関係の)決着はいつでもつけられる。関係を絶たないまま続けていく間にいろいろなことに気づいたり学んだり、人の声に耳を傾けたりという時間が持てるといいなと思う」。惑いの末に「彼らが自ら気持ちのいいようにしていった」という二組のありように流れるのも、まさしくそんな時間=B
自他や身近に息づく動植物にもひっそりと耳を澄まし、目を注ぐ。痛みも変化も受け止め、答えを出すのではなく、待つ≠アとの潔さを知る。そんな時間や感覚がいとおしく、ていねいに編みこまれた心の綾がしっくりと身になじむ。味わい深い一作だ。
(日販発行:月刊「新刊展望」2012年3月号より)
今月の作品
- きなりの雲
- 古びたアパートの住人たち。編みもの教室に通う仲間たち。失恋に傷ついたさみ子の新たな日々の物語。愛おしい人たちとのかけがえのない日々を描き、「群像」発表時から話題を集める著者初の長篇小説。第146回芥川賞ノミネート作品。








