2014年 4月号
池澤夏樹
逃げるヒロイン
ポリティカル・スリラーとかポリティカル・サスペンスと呼ばれる分野が好きだ。
ミステリの一種だが、個人の恨みなどではなく、国家や国際関係が絡むのが特徴。最近でいちばんいい例はジョン・ル・カレの新作『誰よりも狙われた男』。
もともとル・カレはスパイたちの闘いを描いた作家だ。007のような個人プレーのお遊びとは違う、組織同士・国同士の本気のバトル。イギリスの諜報部とソ連のそれとの暗闘を扱った「スマイリー三部作」が素晴らしかった。ソ連が崩壊して彼は題材を失ったかと読者は心配したが、それは杞憂だった。世界はさまざまな利害や駆け引きや裏切りに満ちている。
『誰よりも狙われた男』の中心にあるのは秘密の資産、イギリス諜報部がロシアの某軍人に支払ったスパイ活動の報奨金である。軍人は死んだがこれは個人財産だから継承者が現れれば引き出せる。問題はそれがテロの資金に流用されるのではないかという懸念で、継承者を名乗る若者を巡ってドイツの情報諸機関(一つではない)、イギリス、アメリカなどがそれぞれの思惑で、時に暴力的に、動く。継承者の利を守ろうとする若い女性の弁護士、資産を預かっていたプライベート・バンクの経営者、情報機関のリーダーなどの動きと心理が詳細に描かれる。
ポリティカル・サスペンスは徹底してリアリズムだ。現実性の裏付けがないと読んでいてしらける。ル・カレはその点がすごい。最後まで一気に読むから忙しい時には手を付けない方がいい(いちばんいい読書の場は飛行機の中で、理由は邪魔が入らないから)。
日本の作家はあまりこの分野に手を出さない。かつて松本清張にはその要素がある程度あったし、村薫にも幾分はあった。忘れてならないのは1980年に『元首の謀叛』で直木賞を取った中村正軌で、分裂したドイツを巡るソ連の謀略が主題だった。その10年後に彼が書いた『貧者の核爆弾』の解説に今は亡き友人・向井敏はこう記している―この種のミステリの「成否はノンフィクション的な題材を重ねてフィクションを織っていく技量の巧拙にかかっているといってもいいのだが、その面での中村正軌の手腕はイギリスのスパイ小説の名手たちをもしばしばしのぐ」。
ぼくは長年こういうものを読みふけってきたから、それにまあ作家であるのだから、いずれは自分でもこのジャンルを試みたいと思っていた。
それを実行に移したのが『アトミック・ボックス』で、書き上げた今はまずまずの出来かと思っている。
テーマは国産の原爆!
かつて行われた開発プロジェクトの秘密を巡っての資料の争奪戦。30年近い昔に父が関わったこの計画を収めたCDを持って若いヒロインが逃げる逃げる逃げる。追うのは公安の指揮下にある警視庁や各県の県警。舞台はもっぱら瀬戸内海の島々。
ともかくページを繰る読者の手を止めたくなかった。今の時代に圧倒的な人員と予算とハイテク機材を持つ警察から個人が逃れられるものだろうか。世の中いたるところ監視カメラだらけなのだ。新幹線も高速道路も使えない。
ノンフィクション的な題材を重ねてフィクションを織るという向井の言葉を胸にぼくは何度となく取材旅行に行き、小さな島の人口に至るまで、設定した日時における月齢まで、事実に合わせた。そうやってリアリティーを担保した。
話の要点は国家の意思と個人の思いの衝突である。国家には利害があり、個人には倫理がある。ミステリで倫理は大事だ。倫理的に共感できない主人公に読者はついて行かないし、最後のカタルシスにも至れない。
ル・カレよりは軽い。村薫よりも軽い。その分だけたぶん速い。ともかくこのヒロインには逡巡している暇がない。
よろしければご一読を。
(日販発行:月刊「新刊展望」2014年4月号より)
今月の作品
- アトミック・ボックス
- 父には知らない顔があった。美汐27歳。28年前の父の罪を負って、瀬戸内海の逃避行。追手はあまりにも大きい…。原爆、国産プロジェクト。震災後文学最高峰、「核」をめぐるポリティカル・サスペンス。