【対談】 石井光太×稲泉 連
時代とともに歩んできた作品
石井 僕は『ノンフィクション新世紀』を、高校生や大学生の若者たちに読んでほしいと思って作りました。僕も昔そうだったけど、若者って映画を見るのも小説を読むのも、好きな監督や作家が薦めたものを手に取る。でもノンフィクションにはそういうガイドがほぼ皆無なんです。ガイドが良いか悪いか、おもしろいかおもしろくないかは別問題として、ただ、高校生や大学生の読むきっかけを作りたい。そこで何か読んでおもしろければ、また読もうと思ってくれるだろうし、目指そうとする。それによって世界はどんどん広がっていくものだと思うんです。何の分野でも、作り手は作ること、作られたものの素晴らしさを伝える義務があると思う。素晴らしさを伝えれば、その世界はどんどん豊かになるし、活気づく。もともとの思いはそこです。
稲泉 『ノンフィクション新世紀』では僕も「ノンフィクションベスト30」の部分で協力させていただきました。この本を読むと、「完全保存版 ノンフィクション年表 1980―2011」が興味深いですね。これを見ていると、八〇年代はどの本も迫力がすごい。時代を感じるものがあります。
石井 八〇年代、九〇年代の本には「時代とともに」という面がありましたよね。最近は時代から乖離したもののほうが売れたり話題になったりおもしろかったりする。なぜなら、今は時代の牽引力がないから、個のおもしろさで勝負するしかなくなってくる部分がある。たとえば、未踏の山に登ったとか、病気になったとか(笑)。リアルなものに対するアプローチが変わってきているわけです。
稲泉 時代と寝ているかどうか。そういう感覚がだんだん薄くなってきているのかもしれないですね。
冬の時代ではない
編集部注:ノンフィクション作家が作品を発表する媒体であり、書き手育成の場でもあった「月刊現代」「月刊プレイボーイ」などの総合月刊誌が、2008年から2009年頃に相次いで休刊した。ノンフィクションは「冬の時代」と言われることも多い。
石井 「ノンフィクションは終わった」と言う人たちは多いけど、僕たち書き手としてはそんな感じはない。雑誌の数が減ったといっても二、三冊の雑誌が残っていれば十分回していけるし、ノンフィクション誌でなくとも文芸誌で書くという選択肢もある。また方法論の面でも、データマンを使って大勢で一斉にという昔ながらの方法は、僕も稲泉さんも最初から無縁だった。そのシステムが崩れたからといって自分たちが困ることは特にないと思います。
稲泉 石井さんも最初の本などはそうだったと思いますが、そもそも雑誌がなくても書き下ろしで本を出してきたんですよね。僕も雑誌で連載したのは『命をつないだ道』が初めてで、それと今回の『復興の書店』。ほかは書き下ろしでしたから、雑誌が減った影響をあまり感じなかったのだと思います。
石井 『ノンフィクション新世紀』の中で書店員座談会をしたときに書店員の人たちが口を揃えて言っていたのは、「単行本として売れるには、とにかく作家性がなくては」ということ。誰が考えてもこの人が書いているという文学性をその本が持っていて、その作家の名前で売れなければ持続しないと。しかし、雑誌ジャーナリズムの世界はその逆で、雑誌の名前で売れていたわけです。ジャーナリズムである以上、新聞・テレビ出身の人が多かったせいもあるだろうけれども、自分たちをとにかく消していった。それで本が売れなくなっていった部分もあると思います。僕たちは雑誌ジャーナリズムに依存しないで出てきた人間だから、根本から違うのかなと思うんですね。その違いが、方法論として違うものになっている。
稲泉 「ノンフィクションベスト30」でも書いたのですが、僕にとってノンフィクションを読むことの醍醐味は、ディテールの積み重ねから一つ一つのシーンが立ち上がってくる瞬間にあります。その人がどういう行動をとって、そのとき何が見えていて、たとえばどんな服を着ていたか。それらのディテールが重なり合い、一つのシーンとして浮かび上がってきたときに、その人の心情までが理屈抜きで見えてくるように感じられる瞬間です。そういうことが描かれている作品が好きだし、自分もそんなシーンを一つでもきちんと書こうという気持ちでやっています。
石井 小さいこと、何でもないことをどう意味づけしていくか、その蓄積でもあると思います。普通なら意味のないようなものでも、ノンフィクションを書くときは描写に対して意味づけをしますよね。たとえば『復興の書店』では、震災に巻き込まれたその書店の規模、商売の仕方、オヤジさんが書店の前にどういう仕事をしていたかといった小さな経歴、また、その町がどういう状況にあったのか。そういうディテールを書くのは、ある種意味づけをしていくことになるわけで、その蓄積があるからこそ、物語となりえる。
ノンフィクションとは、あるものを書くのではなく、あるものをどう意味づけし構築していくか。それが物語の重さやテーマに直結していくのではないかと思います。
稲泉 おっしゃる通りだと思います。石井さんの『遺体』は、津波の犠牲者の数として挙げられる「一万人」「二万人」といった数字の奥に入り込んでいったことが、一つ大きかったわけですよね。一人一人の物語になった。たとえば、遺体安置所に最初に駆けつけて自らその管理人になった千葉さん。彼がこれまで抱えてきた過去や背景をしっかり描いていくからこそ、そこに切実な物語が浮かび上がってくる。単なる数字ではなく、そこにいた一人の人がどのような人生を歩んできてそこに立ったのか。それは一見すると偶然のようでもあるけれど、ある面から見ていくと必然のようにも感じられる。それがまさに意味づけですよね。
(日販発行:月刊「新刊展望」2012年10月号より)
Web新刊展望は、情報誌「新刊展望」の一部を掲載したものです。続きは「新刊展望」2012年10月号で!
- 新刊展望 10月号
- 【主な内容】
[懐想] 冲方 丁 現代と神話
[対談] ノンフィクションの力 石井光太・稲泉 連